シーンが夜の帷を下ろしてから数時間、月の女神でさえ眠りに付くだろう時間に、神殿内にひとりの足音が木霊する。
　神殿に勤め始めたばかりの見習いクレリックは、はじめてひとりで夜間の見回りを担当することになった。先輩たちは彼女に「なにか起こったことなどない」と語っていたが、怖いものは怖い。神聖な場所とはいえ――いや、荘厳な雰囲気が夜闇に包まれることで、その静寂さが余計に怖さを際立たせていた。
　恐怖をどうにか抑えながら殆どの部屋を周り、最も面積が広く、何かが起こりそうだと予感していた図書館部分の探索を終え、その扉を閉じる。ほっ、と心の底からの安堵の息が自然と漏れた。後は礼拝堂を見れば宿舎に戻り、休むことができる。自然と足取りは軽くなり、クレリックは僅かな月明かりと手元のランタンの灯だけが照らす廊下に静かな鼻歌を響かせた。

　子供の頃から慣れ親しんだリズムを口ずさんでいる内に、いつの間にか恐怖もだいぶ薄らいでいた。後は賢神の神像が安置され、神殿の中で最もその祝福を強く受けることができる場所だけだ。もう問題など起こるはずもない。そう思いながら彼女は礼拝堂へと続く扉へと手を掛けた。

「「♪～～～～」」
　自分の口から出たハミングに、思わずクレリックは足を止める。私はいつの間にか、ひとりでハーモニーを奏でることができるようになっていたのか――などと勘違いするほど、彼女は愚鈍でも楽天的でもなかった。
　誰かの声が重なっていた。つまり、この空間には自分以外に声を出せる何者かがいるのだ。ランタンを翳し、恐怖に青ざめ、震えようとする身体を必死で抑え、暗闇の中に誰何する。
　答えは返って来ない。代わりに返ってきたのは、微かな咀嚼音。
　誰かが何かを食べている。
　獣か、蛮族か、アンデッドか。彼女に考えられる限りの可能性を考えたが答えは出ず、クレリックは意を決して数歩進み出る。そしてランタンの灯が浮かび上がらせたのは、獣でも蛮族でもなく、神へと捧げられたパンとワインをちまちまと食べ、飲み進める少女の姿。
　混乱し、呆気にとられるクレリックとは対照的に少女は微塵も動揺した様子を見せず、ごくんと喉を鳴らしてからこう呟いた。
「おいしい」と。